ズキュウウゥン*1

ジョージ・オーウェルの『1984年』という小説に出てくる、とあるコンセプトが好きで、いろんなところで得意顔で話してきた。


1984年、ぼくが日本で産声を上げたちょうどその頃、オーウェルが描くその世界はビッグ・ブラザーによって統治されていた。全国民の生活は常に監視下に置かれ、自らの考えを記す行為は禁じられ、過去の歴史や記述、小説は真理省による書き換えが進んでいた。

そんな中、次第に人々は政府によって作られた簡略化された言語である"Newspeak"を使用するようになっていく。外国語なんか学んでると「いいじゃん、ロジカルでシンプルな言語いいじゃん!禿同!テラカシコス」とか「お、エスペラントエスペラント宮沢賢治?」等と言って小躍りした後に現実逃避したくなる気持ちにはまあなる。(安心しろふぃりっぷ)*1

ところがこいつは、エスペラントとも、ハングルとも大違いなのだ。この装置のスゴいのは、辞書の改訂の度に語彙が減らされてゆき、政府を批判するような言説やそういった思想の素になるような単語が消滅していくというところ。


自由を禁じられ、知らない間に自由という概念さえもが消えていたら、たぶん僕らは自分たちが自由でないということさえ忘れてしまう。

恐ろしく周到で、頭のいい支配者たちなのだ。表現の自由を制限する一方で、ちゃっかりその表現の可能性の幅も縮めていく。思想を強制し矯正する一方で、その背景にあった歴史や文学を塗り替えていく。コワいでしょ?


そういうことでオーウェル新しい面白れえ、と思っていたのだけど、この前ふとしたところでその20年以上前におんなじことを考えていた人がいたことを知った。ウィトゲンシュタイン大先生(名前がすでに大先生)である。彼はかの『論理哲学論考』(こんな題名を付けられた日には一生読まずに終わる予感が冬の夜空を駆け廻ります)で、こう書いている(らしい)。


「わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する」


こういうのは、たまらなく楽しい。ぜんぜん違うところで、おんなじことを言っている人を見つけたり、まったく異なる見た目ではあるものの、似た考えに基づいているなと気づいたりするのは、面白い。


ということで、写真はエゴン・シーレの絵。どう考えても、ジョジョはシーレの影響を受けて描かれたと思う。