Life goes on

長い一日だった。疲れ果てていたし、もう寝ようと思っていた。でも、エンパイアステートの片隅で迎えた土曜日の静かな夜に、寝る直前に読んだ(そのつもりだった、ということだけれど)ひとつの短編小説が、僕を今こうやってスクリーンに向かわせている。


回転木馬の上にいながら、効用も救いもないことを知りながら、でも、何かを書かずにいられないから、何かしらを書くことにする。


かなりの間、それも相当に長い期間にわたって、精緻に描かれた夢の中にでもいたような気分だ。その夢は、ほんの少し前には(驚くべきことには、今日の朝だって、そうだった)、紛れもない日常だったし、これからも当然のようにずっと続いていくものだと思っていた。その日常が終わりを迎える日への準備なんて、これっぽっちもしてこなかった。想像力の欠如に呆然とすべきなのかも知れないが、誰だって自分の人生について言えば限られた視野の中で何とかやりくりしているのだと思う。


ありとあらゆることは、その日常が続いて行くことを前提として進められていたし、僕の人生はそれを中心にして回りだしていた。


素晴らしく物事が進んでいたかと振り返れば、そんなことはなかった。人生は問題だらけだったし、それらに全力で向き合って片っ端から片付けて行くようなみずみずしいエネルギーも足りていなかったと思う。深い傷を負うこともあったし、日々言い訳を重ねながらだらだらと日々を過ごすことも多かった。これが自分が選ぶべき人生なのだ、という高らかな決意があったわけではないし、悩み、後悔することだって頻繁にあった。


とは言え、だましだましやっていけば、何とかなるだろうという根拠のない確信はあった。じりじりとではあれ、前進している実感だってあった。その確信と実感を信じて、風向きに逆らって大きく舵を切り、ここ最近は新たな場所で苦しい闘いをしてきてもいた。必ずしも有利な闘いではないし、そこにたどり着くために犠牲にしたものもあった。自分にとってベストな環境だとも言えないと思う。でも、それが何かに繋がる気がしていたし、だからこそ、遅々として進まないこの足を前に運ぶことが出来た。


自分には抱えきれないような課題と取っ組み合いをしてきた。別に大層な課題でもないし、どこかの誰かにとっては簡単な話なのかも知れない。驚くべきイノベーションもないし、目を覚ますようなクリエイティビティもない。でも、それを今やるのは自分しかいないから、それをやる理由があるのは自分しかいないから、何とかやってきた。自らの頭の回転の遅さに苛立ちながら、それでいて鈍い嗅覚に困らされながら、それでもどこかに足場を見つけて、しのいできた。


傷つけあって、浅はかな自分たちを顧みて愕然としなながらも、支えあって、笑いあって、たまにはうまいものも食べて、旅もして、過ごしてきた。じっくりと日々を重ねてきた。たくさんの人に助けてもらい、迷惑をかけながらも、良き家族と友に恵まれ、それなりに豊かな生活を築きつつあった。そう思っていた。


でもその日常は、唐突に終わりを告げることになる。至ってあっけなく。


スターは出演しないし、派手な演出もない。悲劇ですらない。エンターテイメントにはなりえない。見出すべき教訓だってべつにないかも知れない。それでも、こういうことは漫画かドラマか映画の中だけにしておいて欲しいなと、僕は思う。


当たり前だったことが、嘘みたいに消えてしまう。足場は知らぬ間になくなっていて、気づいたら冷たい海の中にいる。


いや、日常はこれからも続く。一時停止ボタンはないし、リセットだって出来ない。ゲームオーバーを告げる画面も表示されない。誰もそんな機能は提供してくれない。地球は回り続け、陽はまた昇るし、そして沈む。アンティークの時計もコチコチと時を刻み続ける。(まあ、たまに螺子を巻く必要はあるにせよ)


どんなに辛いことがあったって、そんなことは気にもせずに、着々と時間は進む。始業時間はやってくる。それが時に人を追いつめて、またある時には癒すことになる。そう。日常は続く。どこまでも続く。僕が泣いたって、君が叫んだって、誰かが死んだって、それとは関係なく世界は回る。メキシコには確実に朝もやが訪れるし、その頃カムチャッカには毎日しっかりと夜がやってくる(時にはキリンだって登場するだろう)。


でも、それはこれまでの日常とは異なる日常だ。少なくとも僕にとっては。愛着を持って受け入れていたかつてのそれとは違う、新たな日常だ。世界を変えたいって?簡単だよ。君が変われば、世界は変わる。その真実は、別にドラマティックな社会変革にだけじゃなくて、普通の人の普通の人生にだって変わらず潜んでる。僕にはまだ、それがどんな世界なのか、よく分からない。というか、ぜんぜん分からない。これっぽっちも先が見通せない。だってどこに向かうのかすら、まだ分からないのだから。


前提を外して考えろと、誰かが言ってたなと思う。でも、その前提のただ中にいた者にとってみれば、それが人生の基礎になっていた者にとってみれば、なかなか残酷な話だ。呆然としたいけど、その前提の中で走り出した日常は、明日も続く。わざわざコペルニクスの寓話を持ち出さずとも、パラダイムなんて言葉を使わずとも、くるりと姿を変えてしまった日常が。タフにクールにやってくる。


人生は続くのだ。その身も蓋もない当たり前の事実を、棚から出してきて、埃を落とし、ちょっとばかり見つめてみる。そんな風にして、これまでも人は何とか生き抜いてきたのだと思う。父は温泉に浸かりながら「仕事で辛くなったらさ、商売商売、って思えばいいんだよ。あーショウバイショウバイってさ。そうすると、まあ、何とかなるもんだ」って言ってたな、と思う。こういう時につぶやける、気の利いたセリフも聞いておけば良かったな。