甘ったれのバベルとリップ・ヴァン・ウィンクルの帰還

昨日、精神科医土居健郎さんが亡くなった。
この人は『「甘え」の構造』って本で有名な人だ。

日本人に特有な考え方に「甘え」があるんじゃないか。
「甘え」、「甘えさせる」ことでいろんな物事がなめらかに進むように出来てるんじゃないか。
それなのに、その絶妙なバランスが崩れてしまって、「甘やかし」とか「甘ったれ」みたいな一方的な態度だけが残ってしまっているんじゃないか。

そんなことを言った人らしい。
んで、その発想のきっかけはこんな感じだったみたい。

「甘え」っていう言葉は日本語にしかないようだぞ、おやおや、それじゃあその感覚は日本人特有の考え方の特徴を表しているんじゃないだろうか。うん、そうに違いない!

この考え方は、かなり昔からけっこういろいろな人が考えていたことではあるんだけど、エドワード・サピアって人の弟子、ベンジャミン・リー・ウォーフって人がきちんとまとめたってことになってる。
言語相対性仮説って言って、要するに「言語ってのは、それを話す人(それで考える人)の世界観の形成に影響を与える」んだ、と。


でも、この考え方自体が間違ってるぜ、ちゃんちゃらおかしいぜ、って思ってる人たちもいる。

お前なあ、いいか。何語を喋ってても、世界はひとつなんだよ。
そもそもだな、人は生まれつき身についてる文法ってのがあるんだよ。
じゃなきゃ赤ん坊があんなはやさで言語なんて学べるわけがないだろう。
それを土台に、日本語を学んだり、ポルトガル語を学んだり、ウルドゥー語を学んだりするわけだ。

うーん、まあ、土台にみんな持ってる文法みたいなものがあって、その上で普段使ってる言語が考え方のくせを生むってこともあるんじゃなかろうかって人もいる。


Nemawashiするカナダ人も、Mottainaiと思うケニア人もいるんだけど、
やっぱり儚さとか侘び寂びは日本人が好きな感覚で、けっこう多くのアメリカ人には意味不明だったり、
それでいて浦島太郎の物語はアメリカでも生まれていたりする。


「近頃の若者」は、古代メソポタミアだかアッシリアでも情けなかったし、『葉隠』が書かれた頃の江戸でも歯がゆかったし、現代のイタリアでもどうしようもないわけだ。
そういうことっすかね。


よっし、ちょっと食べ過ぎた夕飯の後の長めの休憩終わり!