断固たる寛容と救いなき開かれたシステムを選び取るということ

春名風花・ぼくは腹の底から泣いた - Togetter


Twitterに、読んでるだけで心が荒むような呟きしてる人がけっこうな数いるのは、何でなんだろう。
たまに驚くほどの黒いエネルギーというか、執念で、いろんな人に怒り、嫌悪を露わにして、暴言を吐き続け、呪っているような人を見かける。
(あるいは自らを呪っているのかもしれないけど)


もともとどこかで裏で言ってたのが、可視化されて、対象になってる本人にすぐに、ダイレクトに届くようになっちゃっただけ、ってことなのかな。
それともTwitterがそういった感情とその発露を増幅しやすいのかな。


これまでTVやインターネットのあっち側にいた人たちが、すぐそこにいて、(少なくとも見え方としては)対等に話しかけることが出来る。
誰でも、ちょっとした工夫をするだけで、世界に対して、言葉を投げかけることが出来る。
それは、素晴らしいことでもあると思うのだけど。


そんなTwitterで見つけた画像。単純化しすぎているのかも知れないけど、象徴的。


バットマン虐殺事件」ってメディアで呼ばれている、銃の乱射事件。
サンフランシスコで泊めてくれたノルウェー出身の友だちが「あの事件を聞いてさ、同僚が口々に「だから銃が必要なんだ」って言うの。狂ってるわ。真逆に決まってるじゃない」って言ってた。そうだよねえ。



そのノルウェーでも、虐殺事件があった。ついこの前の7/22が一周年だった。
首相が「爆弾と銃弾はノルウェーを変えるために使われた。だがノルウェー国民は寛容の価値観を尊重することで応じた。殺人者は失敗し、国民が勝利したのだ」ってスピーチをしたんだって。


日本でも、1995年に地下鉄サリン事件が起きた。
村上春樹は、それは、バブルが弾けて、目標を見失った我々が直面している、開かれたシステムと、閉じたシステムとのせめぎ合いなんだって言っていた。


閉じたシステムは、非常に強力なメッセージを発していて、そこに入りさえすればすべて解決する美しい場所に見える。でも、そこに一度足を踏み入れてしまえば、もうドアは閉じてしまう。抜け出すことは出来ない。
一方で、開かれたシステムは、問題だらけだし、腐敗して堕落している部分ばかりが目に付く。そこに救いの光を見出すのは簡単じゃない。そんなのそもそもないのかも知れない。


でも、それでも我々は、開かれたシステムを選び取らなきゃいけないんだ、って。


もうあれから17年が経った訳だけど、今でも状況はそんなに変わっていないような気もする。
「失われた10年」の次の10年だってもう終わった。それで、僕らは、どこにたどり着いたんだろう。