水晶内で最も不潔なブリリアンス。

perman2006-09-02

笙野頼子の『水晶内制度』を読んで、疲れて、笙野頼子googleで検索して見つけた日記。

生きてますよ。それどころか増殖して
というわけで、8月2日早朝、Royal Sussex County Hospital(そう、’2005年度英国で最も不潔な病院’に選ばれたあのRSC。ブライトンのゲイ街にある)にて、男児を一名出産してきました。

一応確認しておきますが、これはジョークやメタファーではありません。身内や一部の勘のするどい方々にはお知らせしていましたが、日記でこの件につき触れなかったのは、なにしろ高齢出産なんで無事に生まれない可能性もあり、そうなった場合に収拾がつかんやろな。と思ったからです。昨年より禁酒だの便秘だの腰痛だのとぼやいていたのも、要するに全てこの腹ボテがらみの愚痴でした。

kaeちゃん、ご察しの通り、すでに発射済みです。ドクター、NHSでの出産は、ジャパニーズ・コミュニティーでの定説を覆すブリリアントな体験でした。わたしなど7日間も長逗留し、タダ飯、タダティー、タダケーキを食いまくり、入院生活をエンジョイしてきました。平素からろくな暮らしをしとらんだけに、’英国で最も不潔な病院’の心地良いことときたら。ははははは。この辺はまた、まとめて書くつもりです。

そういうわけなので、生活の激変に際し、管理者としては一応あるつもりだった本サイトの方向性も変わらざるを得ず、しばらくは雑文中心にします。書きたくてうずうずしていた英国NHS(国の医療制度)を利用した無料の不妊治療、出産事情に関するエッセイをまとめて書きたいと思っています。テーマは「NHSはそんなにボロックスでもシャイトでもなかった」で。

が、それだけでは更新が年に数回とかになってしまう可能性もあるので、”構想20年、執筆20日”の大長編ノスタルジア雑文も、細切れにアップしていく予定です。いつからか。と聞かれると、ガキが寝てくれたら。としか答えられない状況ではありますが、現在習得中の、左手で子供を抱いて右手でキーボードを操る技が熟練してきたら、けっこうさっさと実現しそうです。

追記:いろいろお心遣いくださっている方々にはどうお礼を申し上げてよいやら恐縮するばかりですが、どさくさに紛れて酒などご送付されるのはおやめください。母乳にアルコールが混じり、母子ともに泥酔して暴れているといったヴァイオレントな事態も招きかねません。シャンパンならまだわかりますが、’いいちこ’、ましてや’西の関’などもってのほかです。

その人のサイト。

若者がよく道端でブリリアントだのファンタスティックだの言ってるのを耳にするが、そんなブリリアントなことなんて何もねえだろう・・・。
上記は、元セックスピストルズのヴォーカリストジョン・ライドン氏が、数年前ヴァージンFMのインタビューで語っていた言葉である。
あれは祭日の午後であった。私はラジオを聴きながら、猫が掻き破った壁紙の張替えか何かをやっておったのだ。
思わず「おおーっ」と口にしていた。「おおおーっ」である。
あのいとも簡単にブリリアントを連発する輩たちは、英国ではいたって普通であって、私が外人だからその感覚がわからんのかと思っていた。
しかし、ここにもわからんと主張するオヤジがいたのである。おおおおおーっ。

而して、ここにはそういう挨拶程度のどうでもいいブリリアンスではなく、私が真にブリリアントであると考えるものだけを記載して行くつもりだ。

その中の記事。

笑える太宰 (2004.10.24)
前回の安吾ちゃんの流れで、今回は治ちゃんで行ってみたいと思う。

わたしが治ちゃんに親近感を抱いたのはひょんなことがきっかけだった。きゃつったら、実はふたご座だったのである。それを知った時には目から鱗が落ちる思いだった。で、大笑いした。騙された。ほぼ確実に、彼は「生まれてすみません」などと思ったことは一度もない。ふたご座のわたしが断言しよう。太宰文学は、「おおーっ。決まったやないかい」「あーははは。何言ってんだ、俺」と作者がウケながら書いた文学に他ならぬ。なぜって、ふたご座とは、元来そういうものだからだ。本気で自分自身を追い詰める性根もなければ、本気で自分に陶酔できるほどの激情家でもない。威張って言う事ではないが、ふたご座は軽薄である。薄くて軽いのだ。Shallowってやつね。

そう考えれば、どうしてわたしが太宰文学に随所で笑かされてしまうのかも納得が行く。
「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。色欲のWarming-upとでも称すべきか」(「チャンス」)
「女の真実というものは、とても、これは小説にならぬ。書いてはならぬ。神への侮辱だ」(「女の決闘」)
「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った」(「川端康成へ」)
上記などは、わたしが椅子からそっくり返って笑ってしまったフレーズのほんの一例だが、きっと治ちゃんも、これらをしたためながら文机にそっくり返って笑っていたんじゃないだろうか。

やはりこの点を指摘しておられるのは、奇しくも重厚なさそり座の井上ひさし氏であり、彼は「なあんちゃっておじさんの工夫」と題されたエッセイの中で、太宰文学は、治ちゃんが格好よくきめたら、そのあとに「なあんちゃって」を付けて読むべきだと書いておられる。
「役者になりたい・・・・・なあんちゃって」
「夏まで生きていようと思った・・・・・なあんちゃって」
「私は市井の作家である・・・・・なあんちゃって」

笑える太宰。
そこら辺をデフォルメして上手くやってるのが町田はんであることは明らかなんだけど、太宰の方が数倍おかしかったと思うよ、本気になったら。

もう一発。

安吾節 (2004.8.3)
「不良少年の瞑想と、哲学者の瞑想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかかっているだけじゃないか」

「道義頽廃などと嘆くよりもまず汝らの心について省みよ。人のおセッカイは後にして、自分のことを考えることだ」

「人間は生きることが、全部である。死ねばなくなる。名声だの、芸術は長いし、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ」

「人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない」

「生きてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな」

「ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生まれる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ」

「型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらえて行くのだ」

「とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、よく生きなければならぬ」

「自殺なんて、なんだろう。そんなもの、理屈も何もいりゃしない。風みたいな無意味なものだ」

「負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ」

酔った勢いで間違えて、ジョン・ライドンのインタビュー記事をこっちのページに載せてしまったわけではない。上記はまったく別の御仁の言葉である。安吾ちゃん。いまだにわたしに拳を握らせる、もう一人の男。

無頼派の雄の言うことは、パンクの雄の言うことによく似ている。
安吾ちゃんが、治ちゃんの死について書いた「不良少年とキリスト」のド正論とかなしみは、まるでシド・ヴィシャスの死について語るジョン・ライドンのようだ。安吾ちゃんもライドンも「生きやがれ」と言う。結局はそれだけのことを、何度も繰り返し言っとるのである。

無頼。それは、誰にも頼らんと云うこと。まさに、ARMY OF ONE。
パンクだから無頼というシンプリスティックな等式は、あながち間違いでもないのかな。

悪くないでしょ?