パレスチナ、そして沖縄。

perman2006-11-10

日吉の来往舎に、久しぶりに足を運んだ。
佐藤真監督、エドワード・サイードに関する映画『OUT OF PLACE』を観るためだ。


かなり前にアテネ・フランセで行われたトークイベントに行って、ずっと観たいと思っていた映画。
イラク・中東研究家の酒井啓子パレスティナイスラエル現代史研究家の臼杵陽、そして佐藤真が語り合った。


その時に感じたことのメモ。

  • ユダヤの人々が描いていた「国」とイスラエルの現状には、乖離があるんじゃないだろうか。
  • 外にいる知識人。ディアスポラ・亡命などにより、ホームに対する思いは強いが、彼らの中にあるホームとリアルな現状・現地に生きる人が求めるものは乖離し続ける。その葛藤


OUT OF PLACEは、不思議な映画だった。
イードの映画なのに、サイードは一回も出てこない。


佐藤さん(監督じゃなく。そう呼びたくなるような雰囲気のおっさんです。)はこう言う。

この映画は、サイードの「不在」からスタートせざるを得なかったんです。


映画の構想を練っている段階での、サイード自身の訃報。
だからこそ生まれた映画。
「不在」の中に、じんわりと浮かび上がるサイード


イードの言葉。

私の人生を表現するなら、
出発と帰還の連続です。


出発は常に不安で、
帰りはいつも不確かなのです。


彼は、自身を“流れ続ける潮流の束”と言った。


そしてこうも言う。

あるべきところから外れ、
さ迷い続けるのがよい。


決して本拠地など持たず、
どのような場所にあっても
自分の住まいにいるような気持ちは
持ちすぎないほうがよいのだ。


この言葉は、あまりにも重い。


そして佐藤さんの言葉。

パレスチナという巨大な問題の底知れぬ奥深さに恐れおののきながら、サイードのテキストだけを指針に中東諸国を旅して廻った。永遠に失われたパレスチナでのサイード一家の痕跡を描いた自伝「OUT OF PLACE」を、将来に向けた共生の夢物語として読みかえられないかと願って、旅を続け、多くの人々と出会った。


故郷を奪われたパレスチナ難民も、様々なディアスポラ体験の末にイスラエルに辿りついたユダヤ人も、境界線上に生きていることには変わりがない。その不安定で揺れ続けるアイデンティティを大らかに受けとめようとする人々を通して、そこにサイードが終生希望を託そうとした未来が見えると思った。「OUT OF PLACE」であることは、あらゆる呪縛と制度を乗り越える未来への指針なのかもしれない。

最後に思い出す言葉。
自らも加害者であると語る沖縄人についての文章の中で、大澤真幸は普遍的な公共性についてこう述べている。

犠牲者がまさに加害者である、という宣言のもとに、公共空間の普遍化がはかられた場合には、決して、公共空間が、積極的・固定的な内容のもとに限定されることはないだろう。

(中略)

普遍性が、それ自身のうちに、還元できない矛盾や敵対性を内包している、ということを含意するからだ。
言い換えれば、ここでは、普遍的な公共空間の真実が、もしそれに積極的な定義を与えようとすれば例外として除去されざるをえないような矛盾のうちにこそ見出されているのである。
ここでは、公共性を裏打ちする普遍性は、限定的な内容を持たない空虚であり、それゆえにこそ、公共空間は、無制限に拡張しうる潜在的可能性を秘めているのである。