満州事変と石コ賢さん

月の光が青白く雪を照らしています。雪はこうこうと光ります。そこにはすきとおって小さな紅火や青の火をうかべました。しいんとしています。山脈は若い白熊の貴族の屍体のようにしずかに白く横わり、遠くの遠くを、ひるまの風のなごりがヒュウと鳴って通りました、それでもじつにしずかです。

夜の中で、黒い枕木は赤の三角や黄色の点々さまざまの夢を見ている。


夕暮れにうつくしくけだかいマリヴロンが言う。

正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれをみないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。

イーハトヴはこんな調子で今日もまわる。


彼が16才のときに石川啄木は肺結核で死んだ。
18才のとき、第一次世界大戦
田中智学が国柱会を設立し、高村光太郎が『道程』を刊行。
21才のときに萩原朔太郎の『月に吠える』とであった。


26才、妹トシと死別。「永訣の朝」。
31才、岩手国民高等学校で農民芸術論を講義。
35才、病床に臥せる中「雨ニモマケズ」を手帳に記す。
満州事変がはじまった次の年、36才。彼は喀血して息絶える。


もし賢治がぼくらと同じ時代に生きていたら、
幼少から赤痢に悩まされ、妹が若くして死ぬこともなかったら、
22才のときに自分のいのちがあと15年ももつまいと悟ることもなかったら、
どんなことを考えただろう。


飢饉もなく、凶作のたびに東奔西走することもなかったら、
青春の真っ只中に第一次世界大戦がはじまり、
死の床に臥せりながら、満州事変勃発の知らせを聞くこともなかったら、
いったい何に人生をささげたのだろう。


妙法蓮華経に感動することもなかっただろうか。
国柱会に入って猛然と童話を作りまくることもなかったのだろうか。
生徒と劇を演じ、大道具小道具を燃やして乱舞することもなかっただろうか。
羅須地人協会をつくることもなかっただろうか。


それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。
そして自分のからだがいま燐のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。


...


そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。


今でもまだ燃えています。