夜を走る

ニックとジムに行った後、ブリスベンの街を走る。そういえばジムのトレーナーが面白いティーシャツを着ていた。


「痛之楽」


痛みは楽しさを生み、楽はやがて痛みを齎す。酒と煙草とドラッグに溺れた日々から復帰し、断トツにストイックな毎日を送るロンドン生まれの青い目をした同居人は、建築現場と日々のトレーニングで鍛え抜いた上半身を見せつけながら走る。女の子とすれ違うたびにニヤニヤして話しかけてくる。


ウォームアップに丘を下り、そのままサウスバンクまで向かう。一気にグッドウィルブリッジを渡って、川に沿って森の中を中華街があるヴァレーの方向に進む。


「ジェイミーがこの前面白いこと言っててさ」


息を切らしニックが話しかけてくる。ジェイミーは軍隊帰りのイギリス人だ。訛りのきついブリティッシュ・イングリッシュで話す。彼女の桃ちゃんと暮らすために出ていった。それきり見ていない。


「痛みは、自分の中の弱さが追い出されてく時にあげる悲鳴だってさ」


ステーキのいい匂いの中、ウッドデッキを軋ませ二人の男が夜を行く。風が吹き抜ける。いい気分だ。シティの果てにたどり着いたら、九十度曲がる。傾斜のきつい坂を上りきり、そのままシティを駆け抜ける。仕事終わりの人々が行き交う街中を走るのは刺激的だ。シティセンターと州立美術館や図書館等が密集する元万博会場を結ぶ大橋を渡る。


「スパート準備完了」


ニックが腹の中のレッドブルを瞬間的に燃焼させる。サウスバンクを疾走する。対岸のシティが網膜に刺さる。


「じゃーなーー!」


輝くビル郡に向かって、二人で叫ぶ。フィナーレの第一弾は『ロッキー』に出てくるような階段だ。ヒロインの名前を叫ぼうとしたのだけど、違う人の名前が浮かんで思い出せなかった。エイドリアン、の代わりにその名を心の中で叫ぶ。


「もう終わりだと思うだろ。まだ丘を駆け上らなきゃならないんだな」


夜が少し濃くなったような気がする。その漆黒を切り裂いて行く。最後の坂が見える。よし、行くか。


「フジヤマだ」


坂の中腹でニックが呟く。登り切った。ハイタッチする。大声で笑う。ブリスベンは星が多い。こんなこと言ってると、また「違うって。星が多いんじゃないの。たくさん見えるだけだよ」って言われるな。