武士道と片思い
武士道の虎の巻、山本常朝『葉隠』。
「武士道といふは死ぬ事と見付けたり。」
みんな知ってるこのフレーズは、でも、間違って解釈されてる場合が多い。
主人への忠誠と自らの名誉のためならば、命など惜しくない。
ハラキリ、ラストサムライ、トッコウタイ...
日本人も、他の国の人々も含めて、けっこうたくさんの人がそういうマッチョでロイヤルでオリエンタルでエキセントリックな考え方をヒトコトで表した言葉だと思ってる。
違和感と嫌悪感と、また畏れと憧れを伴って、古き日本の価値観を体現する一文だと考えられてる。
ところが、さっきの一文にはこういう説明が続く。
「毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべきなり」
常住死身。
常朝にとって武士道といふは、武士として毎日をどう生き抜くか、その思想のことだったのだ。
忍術の名前を諳んじるのが大好きなハンガリー系フランス人のジェレミーは、残念がるかも知れないけど。
葉隠が書かれたのは、江戸時代の中期。
徳川二百年の太平の下で、殺し合いの機会なんてそんなにあるものじゃない。
そういう時代に、武士はどう生きるべきか。
その問いが、そのエネルギーが、数々の芸術を生み、哲学を生んだ。
武蔵は、剣の道を極めた後に書と画に生き、五輪書を書いた。
常朝はその武士人生の最後に、葉隠を残した。
葉隠には、こんな一文もある。
恋の至極は忍恋と見立申候。
一生忍びて思ひ死にするこそ、恋の本意なれ。
ジェレミーに、教えてあげなきゃ。
君が憬れる武士道の心髄は、片思いなんだよ、って。